禅で学ぶ「エンジニア」人生の歩き方

第15回荒波のただ中で

トラブルに巻き込まれることがまったくない人生というのは……それはそれで大変に興味があるのですが。実際問題として、そんな方を拝見したことは、あまりありません。

またエンジニア(を含む、現場作業に従事する方々)は、そうでなくとも「トラブルに巻き込まれやすい」職業でもあります。

「現実的な対処対応」も無論大切なのですが、同じくらいに「心のケア」もまた、大切なのではないかと思っております。

今回はそんな「トラブルに巻き込まれた時」の心構えにまつわる禅語を3つ、取り上げてみたいと思います。

禅語「我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋癡」

ランク:新人 カテゴリ:疲労回復

元々は、懺悔文というものからの引用になります。

「我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔」となりまして、⁠がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆむしとんじんち じゅうしんごいししょしょう いっさいがこんかいさんげ」と読みます。

意味は、少し堅い言葉で書きますと「我が昔より造るところの諸悪業(諸々の悪業)は、皆、無始の貧瞋癡による身語意に従う事により生じるなり。一切を我れ今、皆懺悔いたします」となります。

……ちょっと堅すぎますねぇ、かみ砕きましょう。このまんまじゃ北九州市の名物、くろがね堅パンも顔負けの硬度です。

「人はすべからく仏である」というのは、基本的な仏教のスタンスです(とか言いつつ、12回ですでに「衆生本来は迷道の心」にてそれに対する反証も出ていますが⁠⁠。

ただ。⁠人の本性」はともかくとして「今この瞬間」を問いますと、悪行悪業を重ねる人が0ではない、ということもまた、残念ながら事実になります。悪行悪業を重ねる人が0ならば、きっと私はこの原稿を書くチャンスさえなかったでしょうから。

では。⁠本来は仏である」はずの人が、何故に「悪行悪業を濁々と重ねていく」のでしょうか?

それを懺悔文では「貧瞋癡による身語意に従ってしまう事で発生してしまう」と述べています。

……またわからん用語が出てきましたねぇ。
さらにかみ砕きましょう。

まず、比較的簡単な「身語意」から。これは「五感や行動(⁠⁠身⁠体⁠⁠、言葉(言⁠語⁠⁠、思い(⁠⁠意⁠識⁠⁠」のことになります。

つまり「感じたり思ったり語ったり」することが身語意です。
つまり「貧瞋癡によって、感じたり行動に出たり思ったり語ったりすること」が、多分悪さをしているっぽいような感じになります。

では。貧瞋癡とは、なんでしょうか?
ここが、今回の要になります。

貧瞋癡は「⁠⁠貪⁠(とんよく⁠⁠瞋⁠(しんい⁠⁠愚⁠癡⁠(ぐち⁠⁠」となります。

貪欲は「自分だけがむさぼりたい、自分がよければよい、という欲望」を。
瞋恚は「我慢をすることができずにすぐに怒り出す、曇った心」を。
愚癡は「周囲を知ろうとせず理解しようとしない愚かな頭」を。
それぞれ意味します。短い書き方をすると「むさぼり、いかり、おろかである」ってのがこの3つですね。

確かに……これを「思うだけ」ならともかく(それでも、思うだけで十分心が濁りますが⁠⁠、これが「言葉に出たり」⁠行動に出たり」すると……とりあえず、あんまり「楽しいことにはならないだろうなぁ」ということは、比較的容易に想像がつく気がします。

そうですねぇ……状況を「仮定」してみましょう。

「相手のことを状況を知ろうともせず知りたいとも思わず(愚癡⁠⁠、ただひたすらに自らがむさぼりたいだけのために(貪欲)我慢もせずに相手に対して怒りを口にし、行動に移す(瞋恚⁠⁠。

仮定とか書いてみましたが、実際に文章にすると、そんなに「あり得ないってほどないことでもない」ような気がしますねぇ(苦笑

ただ。
こんな事をやっては、周囲にとっては大迷惑ですし。
そうしてそれは、それ以上に「怒っている当人にとって、とても哀しいこと」なのでは、ないでしょうか?

相手を知ろうとせず、我欲のみをふくらませて怒りをふくれあがらせて。
その結果、相手と自分を傷つける言葉を思い、紡ぎ、音として放って。
後悔してしまう心で自らをもっともっと傷つけて。

そんな負の無限ループは、きっと楽しくないのではないでしょうか?

頑張って、どこかで

break;

と一行、書かなければならないのではないでしょうか?

無限ループって、おっかないくらいCPUリソースとか食いまくりますしね(むか~しの環境だと、もの凄い金額を請求されていましたし⁠⁠。

セキュリティもプログラムも全部一緒ですが。
まずはなによりも「知ること」です。愚癡を潰すことです。

もし「知ることができない」にしても、⁠知ろう」という意志を持って努力をしていれば。
きっと、どこからか手がさしのべられる瞬間は来るものです。

そうして、知ることで「我欲と同じくらいに、相手にも欲がある」ことを知ることができれば。

きっと「我欲のみを押し通す」ことはできなくなりますし。
⁠相手がいることを」理解すれば瞋恚にあるような「我慢できない怒り」も、少しは「理解しよう」と思えるのではないでしょうか?

もちろん。

自分がやらかすのではなく「相手にやらかされること」も多々あろうかと思いますが。
そんなときに、あえて「相手の状況」に思いを馳せてみることで。

見えてくるものもあろうかと思うのですが、如何でしょうか?

禅語「独生独死独去独来」

ランク:中級 カテゴリ:疲労回復

「独生 独死 独去 独来」という文節で切れまして、⁠どくしょう どくし どっこ どくらい」と読みます。
そのまんま「独り生まれ、独り死ぬ。独り去り、独り来る」って感じです。

袖振り合うも多生の縁、なんて言葉があります。⁠多少の縁」って勘違いするケースがあるようなのですが、正しくは「多生の縁」です。

ご縁ってぇのは大切で有難いもので。
例えば「厄介事を持ち込む人」ですら、それはきっと「かけがえのない、大切なご縁」なのです。まぁ……良薬は口に苦しっても限度があるだろう、と思うことも多々あるとは思うのですが。

そんな「苦いご縁」を含めて、それは「あなたを磨くために大切な」ものなのです。
ましてや。あなたを慈しみ、手助けし、教え、育て、守ってくれるご縁であればなおのこと。

ただ……そんな「ご縁」があたりまえになってしまうと、人はつい「頼ってしまう」ものでもあります。

「忘れるのが哀しいんじゃない。忘れたことさえ忘れてしまって、それを悲しむことさえできなくなることが哀しいの」なんて台詞を聞いたことがありますが。
いつもある「あたりまえ」に。いつしか「あたりまえであることすら失念して」気を払わなくなってくるのが、哀しいかな、人間の常でございます。

では。

「ご縁」があたりまえになり、⁠頼ること」があたりまえになると、どんなことがおきるのでしょうか?

「だれもオレのことをわかってくれない」⁠みてくれない」⁠きいてくれない」⁠かまってくれない⁠⁠。助けてくれない教えてくれない手助けをしてくれない守ってくれない。

そんな不平不満が心の中に充満していきます。

この不平不満の根底にあるのは「わかってくれてあたりまえ」⁠かまってくれてあたりまえ」⁠手伝ってくれてあたりまえ」⁠教えてくれてあたりまえ」⁠守ってくれてあたりまえ⁠⁠。あたりまえのオンパレードです。

でも。
そんな横柄で一方的なご縁を、相手ははたして喜ぶものでしょうか?

今度は逆に。

「やってくれないんなら縁なんていらない」と縁を否定して「一人」になると。はたして、人はどうなるのでしょうか?

一人ということは、つまり周囲は「いないも同然」となります。何せ「一人」なわけですから。周囲は存在しないわけですね。

それで本当に孤高を貫くのであれば……或いはそれは「人嫌いの仙人」として成り立ちうるのかもしれないのですが。

やはり人間は「社会性を持つ生き物」なのでしょう。どうしても「他人との関わり合い」は欲しがるようでして。⁠他人は存在しないけど他人との関わり合いは希望する」という不思議な状態への欲望が、時として心を蝕むことがあります。自己愛性人格障害、という単語を耳にしたことはないでしょうか?

だからこその。⁠一人」ではなくて「独り」なのです。

他人が存在することを知り、他人との縁を認識して、大切にもして。
その上で「その縁に執着しない」ことが、大切なのです。

「回りがちゃんとしてくれない」というあなた。その前に「あなたは相手を理解し、見、聞き、助け、守り、教えてますか?」
⁠一人でいいんだ」というあなた。本当に「まったく誰とも接触さえない状態で大丈夫ですか?」

独生 独死 独去 独来。

独り生まれ、独り死ぬ。
独り去り、独り来る。
回りが周囲が他人が存在することを知り。縁があることを知り。
その上で、その縁に頼り切ることなく寄りかかることなく「独り」であることを知る。

そんな「自立」が、あるいは、とても大切なのではないでしょうか?

禅語「雁度寒潭 雁去而潭不留影」

ランク:上級 カテゴリ:疲労回復

元々は、こんな詩です。

  • 風来疎竹 風過而竹不留声
  • 雁度寒潭 雁去而潭不留影
  • 故君子事来而心始現 事去而心随空
  • 風、疎竹に来たる。風過ぎて、竹に声を留めず
  • 雁、寒潭をわたる。雁去って、寒潭に影を留めず
  • 故に君子は。事来たりて、心始めて現る。事去りて、心は空に随う。

竹林に吹く風。寒々とすんだ淵をわたる雁。
相変わらず筆者好みの美しい光景ですが……最後の「君子~」の文章が気になります。これはなんなんでしょうか?

すこし、話をそらしまして。

口論になるようなシーンが、例えば一つ、わかりやすいのですが……こんな台詞を、言ったり聞いたりした経験はないでしょうか?

「大体君は昔から……」⁠あなたは以前もそうだったわ」⁠そもそも前々から……」⁠こないだもそうだったわよね」などなど。

いわゆる「話を蒸し返す」というヤツですが。このあたりのフレーズが出てくると、概ね、こじれます。
あまり昔のことを「罪を悔いている相手にすら延々とぶつけ続ける」のは、あんまりお行儀がよいことではないと思います。

だからこそ「何かをされた」時に受け流しスルーし平常心を保って感じないようにすることが大切です…………っていう話なのかというと、実はそういうわけでもありません。

概ね「痛覚」というのは、どんな生物にとっても「生命に対する危険信号」なわけです。つまり「ヤバイよ? 気をつけなよ?」というシグナルなわけです。それが肉体的なものであれ、精神的なものであれ。

そのシグナルを「冷静になろう」とか「無心になろう」とか「心を広く持とう」とか、そういう単語で糊塗してしまうと。それはつまり危険の前兆を見逃し、結果として危険本体がやってくるわけです。

危険を「危険」と感じることは、痛みを痛みと感じることは。つまり、辛いことを難しいことを無茶を言われていることを酷いことをされていることを。それはきちんと認識し、過敏ではない程度に反応するなり相談するなり反論するなり防御するなり、しなければならないわけです。

君子は事来たりて心始めて現る。
事去りて心は空に随う。

事が来たら、心を現しましょう。必要な対応を取りましょう。
それが一段落したら、忘れましょう。
⁠起きたこと」は覚えていてもよいのですが、それに付随してくる「負の感情」は、できるだけ早く、忘れましょう。
忘れて、いつもの「ニュートラルギア」に、(くう)に、戻しましょう。

昔をあんまり粘着質にほじくり返してぶり返すのも、それはそれで如何なものか、とは思うのですが。
とはいえそのあたりを「一切気にせず」今目の前の事象にすら反応しない、というのも、少々危険が伴います。

  • 風、疎竹に来たる。風過ぎて、竹に声を留めず
  • 雁、寒潭をわたる。雁去って、寒潭に影を留めず
  • 故に君子は。事来たりて、心始めて現る。事去りて、心は空に随う。

起きたら反応する。
終わったら終了する。

そんな心境に、少し近づいてみるのもまた、一つの修練なのではないでしょうか?

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