・日時:2019年9月27日
・場所:書泉グランデ7階
『圏論の道案内 〜矢印でえがく数学の世界』発売記念
西郷甲矢人先生 講演会より
──── 自然変換は「縁の下の力持ち」────
『圏論の道案内』第1章でも書いていますが、圏論の三つの根本概念は、第2章の圏と第3章の関手、そして何より第4章の自然変換なんです。これらについて本格的なことは本書をお読みいただくとして、ここでは簡単な例を通じて感覚的に説明しますね。
小学校の時に皆さん算数を習うわけですけど、だいたいどこから始まるかといえば、いまどきは仲間集めみたいなところから始まるんじゃないかと思うんですね。リンゴの集まりとか靴の集まりを作って、同じ数ですか、多いですか、少ないですか、というところから出発するかと思います。
これ実は、皆さん知らず知らずのうちに、ある「圏」を理解しようとしているといえるんですね。どういうことかといいますと、私たちはものの数というものを理解しようとするときに、たとえばものの集まりというものを考える。これをひとまとまりに考えて、一つの考える「対象」というふうに思うわけですね。あるいはこういうペンの集まりとか、おはじきの集まりとか、そういったものを考える。この場合は「集合」をひとまとまりの対象とみなすわけです。ここでいう多いとか少ないとかいうのは、対応づけたりする、比較する、といったことを指しています。
何かについて、考えるだけじゃなくて、その間を比較する。こういうものをひっくるめて考えたものを「圏」と呼んでいるわけです。詳しい定義は本書をお読みいただければと思いますが、考えたいものだけではなく、それらを比較する。つまり、似ているとか違うといった比較の手段、これを「射」というわけなんですが、対象たちだけでなくその間の射までふくめて考えた全体を「圏」と呼んでいるんですね。
じゃあ、そうすると、関手とか自然変換といったものはどういうものか。これを説明してみましょう。これも感覚的な話になりますが、我々はものを数えるときに、自然に指で数えたり、おはじきで数えたりしますよね。あるいは単位で数えたり。それって何なのかってことなんですね。
この世の中にはものの集まりなんて山ほどあるわけです。指の集まりというのはものすごく特殊な例です。ところがなぜか知らないですけれども、我々は指の集まりとか石の集まりとかごくごく特殊なタイプのものについて、それを操作したり比較したりするだけで、計算ということができるようになるわけですよね。あるいは、そろばんもそうです。そろばんの珠を操作するだけでもおよそこの世にありうるものの集まりについてわかります。
これは何をやっているかといいますと、いろいろな多様なものを我々の手元で扱えるものに翻訳し直しています。ただ単にばらばらに翻訳するのではだめです。大きいものを数えているつもりなのに一方では小さいもので数えている、というのは困ります。大きいものは大きいもの、小さいものは小さいものというふうに、考えたいものたちを、関係性を壊さないように翻訳する。こういうことを、関手と言っているわけなんですね。より詳しくは、本をご覧いただければと思います。
そして、いよいよ自然変換です。これはいったい何なのか。たとえばこういうことを考えます。今日受付にあたって整理券を配りましたね。1番、2番、3番……という数値を振りました。これ、考えてみると大変侮辱的なことも言えるかもしれませんね。ここにいらっしゃるみなさんは、もちろん一人ひとり個性があって、この世に一人しかいない存在なわけですから。「おまえは1、2……」というのは。ちょっとひねくれてはいますが、まあ哲学的にいえば。でも、これなしには整理出来ませんね。
では、整理券を配るという行為は一体何なのかといいますと、この生身の人間を、数字の集まりに引きうつして考えたいということなんです。これが順序付けです。
するとどういうことができるようになるかといえば、1、2、3……と対応付けをすることで、たとえば抽選をして「23番の方おめでとうございます」といったことができますよね。または「23番の方は5番の方にメガネをあげてください」なんて王様ゲームみたいなこともできる。なぜそうなるんでしょう。
実は、これが自然変換なんです。
どういうことかといいますと、ここでいえば人間の集まりから数字の集まりに、ある翻訳規則を作っておく。するとそれによって、翻訳がきれいにまとまる。 ちょっと難しい言い方ですが、この本に書いてある見方でいえば、「それが自然同値となるような関手がただ一つしかない」ということになります。
人類は数学が始まって以来、個性あるものを数字の集まりに落とす、つまり順序付けるっていうことを行ってきたんですね。だけどその重大性については、あまり気付かれていません。それはなぜか。
さきほどの整理券の例で、だれかがこっそり番号の並びを崩したと考えてみましょう。これ、話がぜんぶ破綻してきそうですね。自分が思っているものとその数字が指すものがずれていたり、あるいは、居もしない人の番号になっていたり……。コンピュータでいうバグのような感じですね。
そういうまずいことが起こらないような対応付けの総体。実はこれが、自然変換なんです。われわれは、自然変換がある限りにおいて心地よく生活しています。しかし、その自然性がふと失われた瞬間、急に困ったことが起きてしまうんです。
要するに、自然変換は「縁の下の力持ち」ともいえるわけですね。これは声を大にして言いたいのですが、自然変換そのものは、圏論が生まれる前からずっと存在していたんです。でも自然変換という概念は空気のようなもので、気がつきにくいんですね。もし急に宇宙空間へ投げ出されたとすると、いきなり空気がなくなって「まずい!」となる。言ってみればそういう感じで起こったのが、圏論です。
────自然変換を前面に出して解説したわけ────
何を言っているかわからないと思いますが、要するに、幾何学という世界は、図形というもののいろいろな面白い性質を考えたい世界があるんですね。歴史を遡ってみると、それを代数という計算の乗る世界にもってこようとしました。例えていうならば、個性のある人間を数値に落とす、みたいな、そういうことをしたい。ところが、落とし方がいろいろあったんですね。落とし方はいろいろありました。だから当然普通に考えたら齟齬、まずいことが起きそうだと。
しかし、いろんな翻訳の仕方があったのに、実はまずいことが起こらない。とても不思議なことです。つまり、ここにあるものをこう翻訳して、ここにあるものはこう翻訳しているから全然違うものに翻訳されている。関係付けのほうも違うものに翻訳されている。にも関わらずその間が矛盾なく翻訳することが可能である、という奇跡的な事態を言い表す言葉が必要だったんですね。それが実は圏論という考え方の起こりです。
つまり、関手というのはなにかものの見方を定めること、自然変換というのは見方同士をつなぐことと思えば外れていません。イメージの話ではありますが。
例えば座標変換ですと、運動を、一方ではある座標で見て、また一方では別の座標で見る。あるいはもし理系の方でしたら、フーリエ変換というのを聞いたことがあるかもしれません。そういった運動表示や位置表示について、それらの間がちゃんとつながる。そういうことなんですね。
ですから、本書にもちらちらと仏教の話が出てきますが、一水四見、要するに、同じ一つの水でも見る側が違うと見え方が変わる、「四見」という話が仏教で言われています。そこで重要なのが、本当にばらばらで互いにやりとりができないならば、それは同じもの、「一水」として認識されないはずですよね。なぜ、同じものを違う見方から見ている、ということがわかるのでしょうか。それは、異なる見方の間で、翻訳をすることが可能だからです。
(壇上のお茶を指して)これは「緑に見えますね?」と言ったら、たいていの人は「緑に見える」とお答えになるはずですね。もちろん色覚の個人差ということもありますから、みなさんがではないかもしれないですが。しかしどうでしょう、この緑というものを、我々はここへ出してきて、対応付けられるでしょうか。それはおそらく難しい。にもかかわらず、普通の状況の中では、「緑」と言ってしまって特に不都合はないですよね。
一体、これはどういうことなんでしょう。みなさんの頭の中の緑と私の頭の中の緑を実際に目の前に出して、比較することはできません。でも、これは緑ですね、青ですね、赤ですね、寒色ですね……と、何かを指してやりとりする分には問題なく通じる。もしくは、これとこれが同じとか、違うとか、こっちのほうが薄いといった言い方も伝わりますよね。
つまり、お互いの中にあるイメージ同士を直接比較することはできないけれど、そこに存在する「関係」同士について話すことはできる。実際は個々に全然違うものだけれども、ネットワーク構造を互いに比較検討することならできる。こういう考え方に至ります。
そこまでもしお認めになったら、これは意識などのいろいろな問題を考えるときにも役に立ちそうだ、ということが直観でつながるのではないでしょうか。意識の研究などをされている方が圏論に興味を持たれるのも、おそらくその辺に理由がありそうです。
要するに、モノ自体はとってくることはできないし、要素の集まりとして理解できないけれども、他のものとの関係は互いに確かめることができる。そのときに「そのものの同じさ」というのをどうとらえるのか、といったことだと思います。
当然それは意識だけでなく、認知全体に関係する話になりそうですね。そこのところを考えたいときに、自然変換の概念がヒントになると思っています。
────圏の基本概念は「圏」「関手」「自然変換」────
マックレーンという、圏の概念を作った人のひとりがいます。その人は自身の著作で、圏の基本概念は圏、関手、自然変換だとはっきり書いてます。圏論というのは、圏を定義したかったのでもないし、関手でもない。自然変換を定義したかったんですと彼はそこで言っているんですね。ですから、まずは「圏」「関手」「自然変換」という3大話をバーンと伝えるのが正統だと私は考えています。
意外や意外、そういう本はあまりないんです。マックレーンが書いた『圏論の基礎』(ソーンダース・マックレーン著、シュプリンガー・フェアラーク東京、2005)や、他には『ベーシック圏論』(Tom Leinster (著), 斎藤 恭司 (監修), 土岡 俊介 (翻訳)、 丸善出版)くらいだと思います。自然変換は非常に理解が難しいので、入門書でも後ろの方にもってこられがちなんです。
『圏論の道案内』は、私の知る限りでは、おそらく一番気楽な圏論の本だと思います。ただ、この気楽な中で、圏、関手、自然変換というところまで妥協せずに書いた。それは本書の売りのひとつですね。
第3回 自由な発想で圏論という景色を眺めてみよう に続く