前回は、電磁波と電子の波動の類似と違いについて語りました。エネルギーと運動量に関する不変量の関係、あるいはエネルギーと運動量に関するピタゴラスの定理を出発点とした波動の不思議を見たともいえます。それはアインシュタインの光量子と電子の作用に関する現象でもありました。今回も別の観点から、この仮説の奥深い意味を語ってみたいと思います。そして日本が世界の物理学を牽引していくようになる経過も見ます。
E=hν の凄さ―相対性理論とのつながり
光のエネルギーは、その周波数ν に比例してhν であるとアインシュタインが示唆したのは意味深長です。筆者も大学の専門課程でこれを聞いたときに、教養課程の物理から学んだ知識による直感とは違うので釈然としませんでした。質点の振動のエネルギーは振幅が変わらなければ周波数の2乗に比例しますからν 2が出てきそうですが、アインシュタインはじっと我慢して「1乗に比例」と見抜きました。湯川秀樹はこの凄さに感心したことを『アインシュタイン選集3』[※1]の中で述べています。
この対談は読む価値が高いと思います。対談相手の谷川安孝が指摘しているのですが、量子論と特殊相対性理論の論文を同じ年に出していて、両者の関係には深いものがあるはずなのに、アインシュタイン自身は何もいっていない、その点が不思議です。
光は波動か粒子かの議論があって、ホイヘンス(1629-1695)によって波動だということになり、「それならば媒体があるはず、それをエーテルとしよう。」という議論を経て、マイケルソン-モーレーの実験によってエーテルなるものは存在しないことがわかったわけです。アインシュタインはこれにヒントを得て、光は粒子かもしれないと思いついたのかもしれません。湯川も同じようなことを言っています。
アインシュタインは3月論文の最初の部分で、光はQuanta(量子Quantumの複数)とみなすべきだと述べており、あとで統計力学の数学手法をたくみに使って慎重に量子説を展開しています。
このときアインシュタインは、ほぼ2カ月ペースで物理の画期的な理論を発表していたのです。この状況を何と表現したらよいのでしょうか?
たしかに3月論文と6月論文は独立の事柄を扱っているようですが、光のドプラー効果による振動数の変換が電磁エネルギーの変換則と一致していることで、表裏一体の関係があるように見えます。6月論文でアインシュタインは、光のドプラー効果の計算をして、2つの座標系間の比率が電磁エネルギーも周波数もの比になることを見つけて、その不思議を特記しています。
つまり、相対性理論から電磁エネルギーと周波数の関係が1乗だとういうことになります。この意味では、アインシュタインの相対性理論と量子論が首尾一貫しています。谷川氏が指摘しているのは、このあたりのことを含んでいると思います。
6月論文と古典的な運動エネルギーの考察から9月論文ではE=mc2 を得ています。このように見ていくと、アインシュタインの頭のなかでは熱力学、電磁気学、運動力学、光電現象は一体となっていたのだと思います。そして量子力学と相対性理論が萌芽したのだといえるのではないでしょうか?
当時Wärmetheorie(熱理論)という言葉はありましたが、相対性原理は「絶対」に対する「相対的」な原理という意味であって、アインシュタインの理論が特殊相対性理論と呼ばれるようになったのは後のことです。量子力学はまだありませんでした。
ここで筆者はまた思うのですが、ギリシャから始まったユークリッド幾何の論理やニュートン力学で構築された物理では黒体輻射を説明できなくなり、ブレークスルーが必要になったというのは、非ユークリッド幾何の誕生に似た状況だったのではないでしょうか? そこに登場したのがプランクとアインシュタインであり、それが前々回のテーマでした。今回は、光量子仮説からキックオフされた量子力学が、新しい進展を始めた1923年あたりからのことを少し語りたいと思います。
ここで付記したいのですが、アインシュタインが1905年の相対性理論の時空の理論をさらに発展させて一般相対性理論を完成させたのが1915年です。それは重力と空間の曲がりを結びつけ、光が重力によって曲がることを主張したものです。当時は第1次世界大戦中でしたが、この理論はオランダ経由で対戦国イギリスに伝えられます。大戦直後の1919年に航空機による日食観測によって、イギリス海軍のエディントンはアインシュタインの理論を証明しました。アインシュタインの名声を確固としたのがこの時です。
光量子仮説から18年後、ふたたび時代が動く
以前にも記したように1922年のノーベル物理学賞がアインシュタインに授与されたのですが、それは1905年に発表した光電効果の意味深さが認識された結果だといわれています。このように、アインシュタインの光量子仮説が受け入れられるまでに年月を要したわけです。
上のコラムはその翌年の1923年に、時代が動き始めたことを示唆しています。
前々回ではケルビン卿が20世紀明けに行った「物理学の雲」の講演のことを書きました。ケルビン卿の期待に反して、物理学の雲はどんどん大きくなってきました。プランクやアインシュタインの切り開いた物理学による混乱を整理するために、炭酸ナトリウムの製造法で財をなしたエルネスト・ソルベーによる財政援助で、第1回ソルベー会議が1911年にベルギーのブッリュセルで開かれました。司会は数カ国語を話すローレンツで、主役はプランクでした。メンバーはアインシュタイン、ラザフォード、ポアンカレ、マリー・キューリー、ゾンマーフェルトでした。ハーゼンエールもおりました。
その会議の討議録を編集していたのが、フランス貴族で科学者のモーリス・ド・ブロイです。弟の19歳のルイ・ド・ブロイは、製作中の討議録を読んで深い感動を覚えて科学の道に進むことをして決意しました。彼の出番はそれからほぼ10年後になります。
コペンハーゲンに俊才つどう
イギリスのラザフォードのもとで研究していたニールス・ボーアは、コペンハーゲンにもどり1921年に理論物理学研究所を開設します。新しい学派を旗揚げした彼のもとに各地から俊才が集まってきました。1923年、ゲッティンゲン大学に留学中の仁科芳雄は、ボーアの講演を聞くや彼のもとに移ったほどです。
1923年コンプトン(米)は、光の粒子性を実証する実験に成功しました。それに刺激されたルイ・ド・ブロイは、運動するすべての粒子は運動量に反比例した波長をもつという大胆な仮説を提唱します。これは彼の引き出しの中にしまってあった考えであり、ヨーロッパNo.1の物理学者の地位を得てベルリン大学教授になっていたアインシュタインのもとに早速届きます。
ここで二人の提唱をまとめると、
- アインシュタインの提唱:エネルギーE と周波数ν の関係 E=hν
- ド・ブロイの提唱:運動量pと波長λの関係 p= h/λ
(電子に対してはp= mv; m=質量、v=速度)
となります。
この2つのことを土台にし、さらにボーアのポテンシャルに関する考えを合体した画期的な理論を1926年に提唱したのは、チューリッヒ大学のシュレディンガーでした。この大学はアインシュタインが学んだ連邦工科大学(ETH、エコールポリテクニーク)と通りを一つ隔てたところにあって、いわばツイン大学をなしているように見えます。
光の波動と電子の波動の違いを含めてこのあたりのことを書いたのが、拙書『図解・わかる電気と電子』(ブルーバックス)[※2]です。参照してみてほしいと思います。前回もこのあたりのことを紹介してアニメーションを一つ提供してみましたが、試していただいたでしょうか?
1925年ごろから物理学者の興味が量子力学に移ります。ボーアのもとに留学していたドイツのハイゼンベルグは、後に行列力学と呼ばれるようになった量子力学を発表します。このように、時代の寵児は波動力学のシュレディンガーと行列力学のハイゼンベルグです。これらは量子力学の2系統です。その次に脚光を浴びたのがイギリスのディラックです。1928年、彼は相対性理論とシュレディンガーの波動力学を融合して、陽電子を予言しました。ここで言う融合のなかには、ローレンツ共変性という問題もありました。前回指摘したように、シュレディンガーの波動方程式はローレンツ共変にならないために、特殊相対性理論とは矛盾します。この矛盾を天才的な数学手法で切り開き、その論理から予言した陽電子が1930年アメリカのアンダーソンによって宇宙線から確認されために、彼の説に信頼性が寄せられるようになったわけです。
日本の時代が始まる
前々回の1904年と1905年のコラムに、長岡半太郎の原子モデルのことを1行だけ記しました。残念ながら東洋・日本の物理学はその存在すら認められていなかったこともあって、量子力学誕生の前夜の長岡の発想は見過ごされてしまいました。
量子力学のあと、場の量子論、素粒子論へと進むところから日本の物理学者の貢献が顕著になります。7年半の欧州留学のうち5年をコペンハーゲンのニールス・ボーアの研究室で過ごし、1928年に帰国した仁科芳雄(1890-1951)にはポストを提供する大学がなく、彼は理化学研究所の長岡半太郎の研究室に所属しました。
ここで重要なのは、仁科が京都大学で量子力学の講義を行って湯川と朝永に大きな影響を与えたことです。それがいつのことだったかについては、1928年説と1931年説があります。31年の5月から1カ月というのは確実ようですが、帰国後まもなく(二人が学生のとき)という資料もあるので、ひょっとすると2回だったのでしょうか?
仁科は、31年の京都大学での集中講義の直後に理研で仁科研究室を立ち上げ、朝永を自分のもとに採用します。このとき湯川は、母校の講師になりますが、第2番目の帝国大学―京都大学―は保守的になってしまったためか、新しい量子力学を受け入れる雰囲気がまだなかったようです。
1929年、仁科はハイゼンベルグとディラックを日本に招待しています。
ノンフィクション作家松尾博志が、湯川と朝永の生涯の交錯を徹底的に調べて、『電子立国日本を育てた男』を著したのは1992年です。このタイトルと湯川・朝永が結びつかないのだが、それについては次回に別の視点から稿をあらためたいと思います。
松尾によると、この二人の講演を聞いた湯川と朝永は対照的な大きな影響をうけています。朝永は彼らの話を聞いて量子力学がはじめて腑に落ちたと感じたのに対して、湯川は、彼らに対抗意識を覚えたようです。この若いヨーロッパの学者を迎えている日本の教授たちの対等と卑屈の入り混じった雰囲気を見て、自分は外国などに留学はしないで日本でよい仕事をするのだという決意を形成します。当時、留学で箔をつけ、仕事の種も外国で仕込んでくるのが日本の学者の常識だった時代に湯川は異例の決心をしたといえます。ハイゼンベルグとディラックはまもなくノーベル賞を得るのですが、湯川と朝永もノーベル賞を獲得したことを読者はご存知のことと思います
こうして新しい展開は意外なところから動きだしました。阪大の同僚で東大出身の伏見康治が見つけてきたフェルミのイタリア語の論文から、湯川は(パウリが予言した)ニュートリーノという素粒子のことを知ります。それをヒントに原子核の中で陽子同士を引付けあっている核力を解明しようと眠れない夜が続くことになります。そしてついに電子の200倍の質量の中間子という仮説によって、新しい量子力学の理論をつくりだしたのです。中間子は、陽子間の斥力をおさえ、電荷を持たない中性子をも結合させて原子核を安定にする核力を媒介とする粒子です。
1934年の晩秋にそれをセミナーで聞いたときのことを回想して伏見は「湯川の話の筋を理解できたのは坂田さんを除いて私だけではなかったかと思う」と語っています。坂田昌一は湯川の最初の弟子で1942年に名古屋帝大に移り、伏見は1961年名古屋大学に設立されたプラズマ研究所所長になります。
松尾によると、この2人を含めて周辺の人々は湯川の中間子仮説は理論としては理解できたが、本心で認めたのは八木秀次だったようです。湯川が東京駒込の理化学研究所に理論公表の挨拶に行ったとき、仁科もすぐにはその理論を受け入れることは困難だったようです。精々面白いねという社交辞令の激励だった様子を松尾は書いています。しかし頭の切れることでは湯川よりは上だと自他ともに認めていた朝永は、先を越されたなという実感をもち、湯川の理論を早速受け入れて自分の理論の構築に向かったようです。
翌年(1935)2月に日本物理学会欧文雑誌に掲載され、世界各地の大学に発送されたのですが、ほとんど図書館の倉庫に置かれたままだったようです。つまり東洋の国の物理学雑誌は捨てることもできない紙くず扱いだったのです。
量子力学の生みの親ともいえるニールス・ボーアが仁科の計らいで来日したとき、湯川は彼に会って中間子論について意見を求めたのですが、ボーアは新粒子には冷淡でした。不思議なことに物理学の歴史をたどると、ひとたび大御所となった学者は保守的に変身します。
湯川の予言した中間子は、当時の加速器ではこの粒子を飛び出させるのは無理としても、ウィルソンの霧箱を利用して宇宙線の中から見つかる可能性はありました。しかし日本の研究機関で確認しようとしなかったことは、当時の実験物理学者の見識の甘さか執念不足だったか、反省があったようです。
1936年にまたしてもカリフォルニア工科大学のアンダーソンが宇宙線の中に新しい粒子を見つけたという報告が届きました。乾板10000枚の中の1枚に質量が電子の120~400倍と推定される粒子の痕跡があったのです。アンダーソンらは霧箱で追い続けて質量240倍と決定しました。この新粒子によって湯川の名が知られるようになったのですが、それは湯川の予言した中間子とは違うものであることがやがてわかります。イギリスのセシル・パウエルが、湯川のπ中間子を確認したのは1947年です。
坂田は中間子には2種類あるという理論を発表していました。その後中間子には多くのものがあることがわかり複雑になります。
素粒子の背景にある時空
1939年4月、京都帝大に教授として戻ることになった湯川に、ソルベー会議への招待状が届きます。テーマはまさに彼が予言した中間子。湯川は靖国丸で6月に神戸をたったのですが, 8月2日にナポリに着いたときに会議が中止になったことを知ります。ヨーロッパに戦雲が立ち込めたためでしょうか。湯川はハイゼンベルグのもとで共同研究中の朝永の出迎えをベルリンで受け、彼の案内でドイツの大学などを回ったところで、8月26日ドイツ在留日本人はハンブルグからチャータされた靖国丸で退去を退去します。一行がノルウェーのベルゲン港に停泊中の9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し第2次世界大戦が勃発。
湯川はニューヨークでアメリカに入って大陸を横断しながら大学を回ることにしたのですが、朝永はそのままパナマ経由で日本に帰国しています。湯川は高等研究所でアインシュタインに会っています。1922年にアインシュタインが日本に来たときの熱狂的な歓迎を報道で聞いており、少年らしい憧憬の念は抱いていたが中学生の湯川はまだ講演を聞きに行くだけの心構えができていなかったと後年書いています。そんなこともあって湯川は、なんとしてもアインシュタインに面識を得たかったに違いありません。
アインシュタインは、このときルーズベルト大統領に原子力計画の緊急性を勧告したばかりでした。それがマンハッタン計画の一里塚となったことはよく知られています。
そのとき6年後には原爆が広島と長崎に投下されることなど夢想だにしなかったはずです。歴史はなんとも皮肉です。
湯川のみたアインシュタイン
湯川がアインシュタインをどのように見ていたのか、アインシュタイン選集を読むと彼についてよく書いています。筆者の理解ではポイントが4点です。
- (1)(若いときの業績について)E= hν を広く深い思索と計算から導いたことがゴツイ、特殊相対性理論の変換則にもかなっている。
- (2)アインシュタインの凄さは一般相対性理論にある。それは特殊相対性理論に終わらず哲学思考をもって突き進んだことだ。
- (3)1939年の最初の出会いのときのアインシュタインは湯川の中間子とか新しい量子力学にはあまり関心をもっていなかった。一般相対性理論と電磁場の統一論に関わっていた。ある意味では年のせいだろう(皮肉なことに、湯川自身も、マレー・ゲルマンがクオークの理論を持ち出したときに、否定的だったと言われています)。
- (4)戦後、招聘を受けて再びプリンストン高等研究所で会ったときのアインシュタインは、スケールの大きな学者であり平和主義者だった(アインシュタインは大好きになった日本に原爆が落とされたことを深く憂慮し、これが平和主義者としての大きな決意をもたらしたことはいろいろな本に書かれています)。
湯川へのノーベル賞が発表されたのは、コロンビア大学客員教授のとき(1949年10月)のことで、日本中が沸きあったのを小学生の記憶としてよく覚えています。
南部が見た湯川
アインシュタイン没は1955年。彼と原爆廃絶活動をした湯川の逝去は26年後の1981年。2008年のノーベル物理学賞受賞者の一人が南部陽一郎氏ですが、同氏はこのとき雑誌「科学」の湯川秀樹追悼特集(1981)で、湯川の評価をα、β、γとして次のように述べています[※4]。
- α 中間子理論によって素粒子物理学の理論面の生みの親
- β1 朝永振一郎の繰り込み理論へつながる特質と、
- β2 坂田の自由なモデルの設定へつながる特質
- γ 戦後は直接的な理論貢献よりも、間接的な活動だった。
ここで、γの内意としては、第一線の研究者ではなかったということなのか、教育者とか学会や国の科学技術関連の重鎮としての活動なのか、原爆廃絶などの平和運動のことをさすのか分かりません。
その一方、マックス・プランクの1923年の講演から始まった因果律の解明を含めて根本理論を深く考察逡巡していたのかもしれません。湯川は時空構造の根本の見直しを示唆していたようです。素領域という当時の概念自体が、背後に連続体としてのミンコフスキー空間を想定している点で不徹底であるかもしれない、と述べて時空自身の量子化のことを指していたようです。
アインシュタイン選集で湯川の対談相手をした谷川安孝は、次のように言ったということです。
預言者湯川は、時空概念の根本的改革が必要であるという啓示を残して去った。
それは、『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』で取り上げた連続的な双曲幾何空間でもなく、リーマン幾何の空間でもない時空概念が今後の課題だと示唆したのだろうと筆者は思います。
- 参考資料
- [※1] 湯川秀樹:アインシュタイン選集3、共立出版
[※2] 見城尚志:図解・わかる電気と電子(ブルーバックスB1249)、講談社
[※3] 松尾博志:電子立国日本を育てた男、文芸春秋社
[※4] 田中 正:湯川秀樹とアインシュタイン、岩波書店
[※5] ディヴィド・ボタニス、伊藤文英他訳:世界一有名な方程式の「伝記」、早川書房