著者の一言

突然ですが、本書を執筆中に起きた出来事の話をさせてください。

ある日、筆者はカフェでアルバイトをしている家族を迎えに出かけました。予定通り家族と合流したとき、雑居ビルの非常ベルが鳴っているのが聞こえました。音はけたたましいものの、ビルからは火や煙があがっている様子は一切なく、異臭もありませんでした。それどころか、そのビル内の飲食店で、従業員も客も普通に時間を過ごしている様子も窓から見えます。ビルの関係者と思われる人が、タバコだけ吸って、ビルの中に何ごともないかのように戻っていく姿さえ見ました。非常ベルの音さえなければ、日常の場面と何一つ変わらないのです。

筆者はこの時、非常に不思議な感覚を覚えました。あえていうなら「周囲の人々に対する違和感」です。なぜなら、その日繁華街に居た誰しもが、⁠非常ベルが鳴っていることには気づいているが、結局素通りしている』からです。明らかな異常が何も起きているように見えないために、皆立ち去っていくのです。

筆者もその不干渉の雰囲気に飲み込まれそうになりましたが、思いなおしてその場で消防へ連絡をとると、すぐに消防車と警察車両が現場へ来てくれました。すると雑踏の人たちが、見慣れぬ車両の到着に驚き、立ち止まりだしました。何ごとかとスマホで撮影する人まで出てきます。非常ベルが鳴っていた際には不干渉と決めていた人たちが、消防車の出現や、慌てだすビル内の関係者の姿を確認することで、急に『干渉』の姿勢へと変わっていったのです。そして結果として、非常ベルは誤報ではなく、ビルの地下に煙が充満していることが判明したのでした。

筆者は、ITコンサルタントとして30歳で独立後、様々な企業様のプロジェクトを支援しています。その中では、問題を管理する「課題管理」や、今後何らかの障害を起こす可能性もある「リスク管理」等のご支援も含みます。仕事では、定期的に、その内容を企業様に報告する必要があります。しかし、この課題やリスク報告は、⁠繰り返すたびに聞いてもらえなくなる」という特徴があります。直接言われることはありませんが、何十社と支援してきた筆者には、相手の方が何が言いたいのかわかります。

「その話なら前も聞いたよ」
⁠でも今は何も起こっていないでしょう」
⁠とりあえずプロジェクトが進んでいるなら、指摘された課題は大したことではないのでは」

これは業界業種、会社の規模問わず、決して珍しいことではありません。①誰も重要視していないなら大した問題ではない、②警告は繰り返されるが事態が悪化しているようには見えない、③仮に事態が悪化することがあってもきっと何とかなるだろう、という意識が、心の中で大きくなっていくのです。さらに、④報告する事で逆に咎められることがあるかもしれない、という不安が下支えになることもあるかもしれません。言い換えるなら、⁠目の前の問題には、不干渉であることが最善である」と判断する個人が、集団となってしまっているのです。こうした集団を是正するには、集団のルールに染まっていない、外部の眼を入れることが有用です。ただし、外部からの指摘で問題が指摘される時は、ほとんどの場合において、もうすでに企業として危機的状況であることを意味しています。外部からの指摘では遅すぎます。かといって、内部からの指摘では慣れがでて、見過ごされます。

そこで必要になるのがITガバナンスです。ITガバナンスはIT部門だけのルールではなく、経営のあらゆる要素を考慮して、ITを経営や日々の仕事に役立てるためのものです。対象範囲は、経営戦略や財務、業務プロセス、法令順守や人材育成、そして先に述べたリスク管理や課題管理までを含みます。冒頭の例でいえば、ビル内の関係者がベルの音を聞きながら無視していたのは、⁠非常ベルが鳴ったら、通報する」というガバナンスがなかったからと言えます。であれば、まずはこのルール構築が必要です。さらにその「非常ベルが鳴ったら通報されるシステムを構築する」など、ITによって解決する手法も考えます。また、そもそも非常ベルが鳴るような異常事態を作らないための体制も必要です。このような体制を、ITを使いながら作り上げ、一人一人がルールに準拠する意識を持つこと。ITはあくまでもツールであり、そのツールを最も効果的なかたちで用いながら、ルールや体制を整えることが、ITガバナンスの役割です。

ITガバナンスはまだまだ新規の分野ですから、たとえ先進企業であっても、ITガバナンスの知見を有している役員・社員は少ないことが珍しくありません。よって、取り組んでいる企業様でも、有名なコンサルティングファーム等に依頼し、社内メンバと外部メンバを含めたワンチームでITガバナンスを実施されているところがほとんどでしょう。幸運にも、筆者はフリーランスという立場上、様々な企業様、コンサルティングファーム様とチームを組み、ITガバナンス体制の構築を経験してきました。その中に多くの成功があり、また多くの失敗がありました。数多の事例を経験してきたからこそわかる、ITガバナンスの勘所をお伝えできるつもりです。

ITガバナンスが効いた会社で、課題やリスクが見過ごされる/放置されることは稀です。非常ベルが鳴っているのに気付かず、あなたの会社が深刻な火事になる前に、リスクや課題に気づき対処していく、当然の会社になるための仕組み、それがITガバナンスです。本書を通じてITガバナンスを理解いただき、よりよいITガバナンスの推進に役立てていただければ、これ以上の喜びはありません。

2026年7月 鶴田信太郎

鶴田信太郎(つるたしんたろう)

20代はエンジニアとして,日本初の水素燃料電池車の走行試験プログラム,大型放射線システム,大規模発電所のインバータ導入等,失敗の許されないシステム開発に従事。世界2,000店舗のRFID小売基幹システムの設計・実装に携わった後,2017年にLV3株式会社を設立。以降,保険,製薬,自動車,半導体等,多分野で大型プログラムの企画・設計をリードし,BIG4を中心とする大手コンサルティングファームとチームを組みながら,数十社のITガバナンス構築を支援。外資系企業在籍時はフランス,ポルトガル,東南アジア,米国,オーストラリア,独立後はドイツ,台湾のプロジェクトに参画し,多国籍チームでの実務を重ねる。その傍らで,手法を論文等で体系化している。技術領域は電気電子,BI,DWH,セキュリティ,データガバナンス,CSV/GxP等。本書が初の著書。

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