すでに第18版を数え、延べ170万人以上もの方にお読みいただいている老舗のペーパーメディア『[最新]パソコン用語事典』の著者、大島邦夫先生に、近年台頭著しいインターネット版事典をどう見るかについて寄稿していただきました。
似て非なるもの
方法論と本質論ともに、いつでも議論においては問題になるところである。これは“how”と“why”の関係によく似ている。たとえば、人は「なぜ考えるのか」と人は「どうやって考えるのか」とでは、議論は本質的に異なる。すなわち、学問分野を明確にして、またその分野で慎重に議論しないと出せない結論なのである。大雑把にいえば「なぜ考えるか」は哲学の分野に入り、また「どうやって考えるか」は数学や論理学の分野に入ると考えられる。
たとえば「なぜ数学を勉強するのか?」というような問いが行われた場合、人によっては「論理的に物事を考えられるようになるため」など、もっともらしい答えをする。しかし、それなら、この本質論は、論理的に物事を考えられるようになることを望むというならば論理学を学べばよい、ということになるのである。なにもあんなにも面倒な数学を学ぶ必要などあるまい。
それでは、なぜ数学を学ぶのかといえば、数学を真に学ぶ理由のひとつは「考え方を学ぶことができるから」である。英語でいえば“how to think”ということであり、決して“why do we think?”ではない。このように、一見すると微妙な差のように見えながら、よく考えてみると大きな違いがあるということは、世の中に多々存在する。
誰でも執筆者になれる百科事典の登場
一見すると同じようだが、よく考えてみると異なるということは、伝統的な百科事典と、最近ではインターネット上で百科事典の代わりの役目も果たし始めているWikipedia(ウィキペディア)との関係にも当てはまる。昔は、どこの家庭にも伝統的な百科事典の1冊や1セットはあったもので、もちろん誰もが知っているほどの存在であった。これに対してウィキペディアは、まだ誰もが認知しているとは限らないようなものである。
ウィキペディアの特徴は、インターネット上に用意されたそれぞれのキーワード(項目)に対して、誰もが書き込みができ、いつでもアップデート(更新)が可能というものである。つまり、インターネットを通して、世界中いつでもどこでも誰でもが、この事典に「掲載されている項目」を更新することができるということである。
このことが積もり積もって、誰もが知りたいことを、最新の情報を交えて知ることができるようになる。結局のところ、リアルタイムで更新される最新百科事典ということにもなるわけである。これは、LinuxというOSがオープンソースという開発手法によって飛躍的に性能を上げ、その用途を拡大していったのとよく似た現象であるように見える。ウィキペディアにおいては、頻繁に更新されている項目に関しては、つねに最新の情報が書き込まれているということになる。
性悪説を跳ね返したウィキペディア
ウィキペディアのアイデアがインターネット上に現れたときに多くの良識ある人々が心配したことは、各項目に書き込まれた内容に、そもそも信頼性があるのかどうかということであった。なぜならば、いい加減な内容の情報が記載されたとしても、誰もそれを監視しているわけではないからである。――ここが、すぐに実行して、それが正しく動作するかどうかを確認できるLinuxとは異なるところである。
しかし、情報の信憑性が確認できないのではないかというような心配をよそに、ウィキペディアの情報は、かなり精度が高く、最新情報までも記載されていることがわかってきた。ウィルスや誹謗中傷などが日常茶飯事のように撒き散らされているインターネットの世界では性悪説が主流になっているのだが、そんな中にあって、これは一服の清涼剤という感じがしないでもない。
気にしないという選択=人これを投げやりともいう
ただし、このウィキペディアに問題はないのかというと、やはりそう簡単に「問題なし」とはいえない。そこには、さきほど述べた方法論と本質論と同様、近いようで近くない問題が内包されているのである。
紙に書かれた百科事典と、つねに更新されて、より最新の内容が書き込まれている可能性が高いウィキペディアとでは、それぞれの項目は参照されることで初めてその存在が生かされるという意味では似ているようでも異なる部分がある。実のところ、紙に書かれた百科事典は、それぞれの記述項目に関して、編集者や出版社など、どこかでこれでよいという認証を受けている。つまり、その事典に収録されているすべての項目内容に対して、ある種の保証がなされているわけである。別な言い方をすれば、その事典に載っている項目のそれぞれは、突出して最新かつ精度の高い情報であったり、何年も更新されていない類の情報であったりするわけではない。それは、定期的に、全項目にわたってチェックを入れた、安定したものなのである。
これに対して、インターネット上の百科事典であるウィキペディアには、各項目において、非常に詳しく最新情報までも網羅しているものがある一方で、まったく手付かずか、書かれていてもほとんどその項目の意味を反映していないようなものもある。こういったアンバランスは、一般的なインターネットのサイトでは、よく見受けられる現象である。――ただし、このような不具合が起こっていても、インターネットの利用者は、それをあまり問題にはしていない。どこかでこのようなことに対する免疫性があるのか、それとも、もともとインターネットとはそのようなものであると割り切って使っているのか、あるいは、誰も気づいてはいないが暗黙の了解事項で黙認しているだけなのかもしれない……。
調味料だけではダメ
このような認識が成立する文化は「味つけ文化」であり、つまり「加味文化」であると考えられているのではないかと思う。味つけ文化とは、本来、そのものの本質論を語ることを目的とするものではなく、本質的なものが存在した上でそこに付加的に表現を加えるものである。料理でいえば、調味料に近い存在といえる。調味料は、もともとの料理がなければ、単調な一種類の味に過ぎない。つまり、砂糖は甘い、塩はしょっぱい、酢はすっぱい……といったように、明確で単品の味である。ところが、それが、料理の微妙な加味(味加減)に活躍するわけである。
われわれが日常生活において最も気をつけなければならないことのひとつを、ウィキペディアは図らずも教えてくれているのではないだろうか。つまり、ウィキペディアによってわれわれは、本質的なものと、その本質の上に乗った付加価値との違いを明確に区別する必要があることを再認識させられているのである。これは、いってみれば、従来の「紙文化」と、それの上に乗った形で存在している「加味文化」との違いの一端を知らせてくれている、ということでもある。
微妙な違いに聞こえていても、よく考えてみると大きく異なっている場合がある、ということである。