こんにちは。グラフィックファシリテーターのやまざきゆにこです。
前回は、「こうあるべきだ!」という「べきだ枠」がだれにでもよく描ける話を紹介しました。「こうあるべきだ」を他人に押しつけたり、自らそれに囚われてしまったりと、だれもが無意識のうちにしているようです。
そんな絵を見るにつけ「人間だもの、しょうがないよね」と感じるようになったわたしは「『べきだ枠』に囚われることは悪いことではない」のだなあとも思うようになりました。
それにしても本当に人それぞれに、いろいろな「こうあるべきだ」と思い込んでいる十人十色の「べきだ枠」が描けるのですが、自分ではなかなか気づけないのも「べきだ枠」です。みなさん自身、自分にはどんな「べきだ枠」があると思いますか?
目には見えない「べきだ枠」に「気づいた」ら、楽になった!
「わたし自身はどんな『べきだ枠』に囚われているのかな?」
とよく考えるようになりました。本当にいろいろありますが、例えば、わたしは「準備は100%完璧にするべきだ」とか「少しでも可能性があればその選択肢を捨てるべきではない」といった「べきだ枠」をよくつくりあげているなあと気づきました。
以前は夜中までかかって明日の仕事の準備をしている自分に対して「どうしてこんなに仕事が遅いのだろう」「ダメだなあ」という気持ちがいつもモヤモヤとついてまわっていました。
でも「べきだ枠」の「存在」を「知って」から、「ああ、また『べきだ枠』に囚われていたのね、わたし!」と思えるようになりました。「準備は100%完璧にするべきだ」という自らがつくりだした「べきだ枠」に自分からハマっていたんだなと、自分を俯瞰できるようになったら、なんだか気持ちが楽になれたのです。
今でも、ついつい時計が夜中の2時、3時を回ってから「やってしまった」と気づくことがほとんどですが、「べきだ枠」に囚われることは悪いことではない」ので、「ま、これがわたしだから、しょうがないのダ!」と思えるようになりました。するとこれまでのモヤモヤ感とは違う、晴れ晴れとした感じがあるのです。
また、自分には「少しでも可能性があればその選択肢を捨てるべきではない」という「べきだ枠」を、他人に押しつけてしまう癖があるとも気づきました。わかりやすい例でいえば、彼女にフラれた男子に、少しでも可能性があるなら「リベンジ! リベンジ!」と発破をかけてしまうわたし。今思えば傷心の彼にはまったくアドバイスになっていなかったと思いますが、「べきだ枠」の「存在」を「自覚」すると自然と言わなくなるから不思議です。
癖でついまた「べきだ枠」を押しつけることも、自ら入り込んでしまうこともありますが、「べきだ枠」の「存在」を「思い出す」だけで、途中で止めることができるようになったのは大きな進歩だと思っています。「べきだ枠」の「存在」を「知らない」まま会話していた自分よりは、ずっとましかなと思います。「べきだ枠」の「存在」に「気づけた」だけでもう御の字! なわけです。
その「存在」に「気付き」さえすれば、抜け出せるのが「べきだ枠」
「べきだ枠」の「存在」を「知った」わたしと「知らない」ままでいるわたしとでは大きな違いがあるのです。実際、「べきだ枠」が描けた後に、続けて描いた絵があります。
囚われていた「べきだ枠」から抜け出した瞬間の絵です。 これらの絵を見直してみると、 囚われていた「枠」に自ら「ハッと気づいた」という、ただそれだけの絵なのです。ですが、ほんのすこし前までは、まさかそんな窮屈な「べきだ枠」にハマっているなんて思ってもいなかった本人としては、その「枠」の「存在」を「知った」こと自体が大発見!という絵です。「枠」の「存在」を「知った」「気づいた」というだけで、「枠」を手にしている絵が描け、するりと「枠」から抜け出せる絵が描けました。
そして、続けて描けたのが次の絵です。「枠」から抜け出し、未来に向かって走り出す絵や、鳥のように自由に未来に向かって飛び立つその絵は、とても活き活きとした表情が描けました。「こうあるべきだ」から解放された絵です。「○○であるべきだ」「○○であらねばならない」といったこれまでの会話とはまったく違った、「わたしは自由だ」「新しいことに挑戦する」「○○をやりたい」「○○でありたい」といった会話が聴こえてきました。
だれかとのコミュニケーションに、痛み、苦しみ、悲しみを感じたら
「べきだ枠」という「存在」を「知っているか/知らないか」ということは、気持ちよく会話をするうえでも、大きな違いをつくります。
「どうもあの人とはコミュニケーションがうまくとれない」と感じるとき、その理由はいくつもの要素が絡み合っているはずですが、その1つとして、双方が囚われている「べきだ枠」の「存在」を「知らない」まま、無意識なままに押しつけ/押しつけられているという絵がそこには描けそうです。
Aさんから「メールに返信が無い!」と言われた上司は、目をキョトンとさせて「?」とAさんの意図を汲み取れない絵が描けました。
営業所から「忙しいのにこれ以上仕事を増やさないでほしい」と言われた本社スタッフは「営業所にまた電話すると嫌がられるのよね…」と言いながら、また恐る恐る受話器を握る絵が描けました。
そして、いずれも、「コミュニケーションがうまくとれないな」と感じたとしても、そのやりとりの多くは、なんとなく一瞬の出来事として流れて消えてしまいがちです。そしてまたその多くは、同じやりとりを繰り返していそうです。そしてそのたびに、お互い「どうもあの人とはコミュニケーションがうまくとれないなあ」と感じて、再び、なんともいえないどんよりした重たい空気を積み重ねていく。
「べきだ枠」を探してみよう
そんなとき、だれにでも描けてしまう「べきだ枠」というものを、その二人の関係にも「探してみては?」というのがわたしの1つの提案です。Aさんと上司がそれぞれ違った「べきだ枠」を持っているはずだ。本社と営業所もそれぞれ違った「べきだ枠」を持っているはずだ、と思って探してみるのです。
実際わたしは、 会議やプロジェクト、打ち合せなどで、 議論が噛み合ない、堂々巡りをしている、どうもコミュニケーションがうまくいかないといった状態のときに
「どんな『べきだ枠』にわたしたちは囚われているんだろう」
と思って、描くよりも先に「べきだ枠」を探してみるようになったのですが、そうやって一度双方を公平に見比べてみると、これが結構使えるのです。
すでに「自分は何か思い込みをして会話をしているかもしれない」と感じている人などは、とっても敏感な人だと思います。「枠」の「存在」をすでに感じているといえるからです。そこでさらに具体的にどんな「こうあるべきだ」に囚われているかを「自覚」できたら、コミュニケーションをするうえではさらに強いなあと思います。
「こうあるべきだ」から解放されると、「こうありたい」を描ける自由が待っている
目には見えないけれど、囚われているかもしれない「べきだ枠」です。たとえ相手や自分がどんな「こうあるべきだ」を持っているか具体的にはわからなくても、その「枠」を手探りで探す行為そのものが、お互いの距離をぐっと近づけるはずです。そして「こうあるべきだ」から解放される時間もぐっと早まると思うのです。
「こうあるべきだ」から解放されると何がいいのか。
思い出してほしいのは、先ほどの「こうあるべきだ」から解放された絵です。 「○○であるべきだ」「○○であらねばならない」といったこれまでの会話とはまったく違った、「わたしは自由だ」「新しいことに挑戦する」「○○をやりたい」「○○でありたい」といった会話が聴こえてきました。
「べきだ枠」の絵は必ず両者に描けます。でもここで大事なのはどちらの「べきだ枠」がいい/悪いということではありません。そんな二者択一の次元とはまったく違うところで、上の絵のように未来に向かって飛び出したとき、お互いが同じ方向を向いて走り出せるのだと思います。
どちらの「べきだ枠」を選択するかではなく、まったく別次元の世界へ、ありたい姿を自由に描ける世界に飛び出してみませんか?
「どうもあの人とはコミュニケーションがうまくとれない」と感じるとき、知らず知らずのうちに「べきだ枠」を押しつけ合って、どちらが正しい、どちらかを選べという会話に陥っているかもしれません。でも、「べきだ枠」はその「存在」に「気づき」さえすれば、抜け出せます。そしてまったく違う次元に飛び出せるきっかけをくれるのも「べきだ枠」です。だからこそ、あえて「べきだ枠」と向き合ってみる、探してみるのはどうでしょうというのがわたしの提案です。
「こうあるべきだ」から解放されて、「こうありたい」を語りあってみませんか?
次回もまた「よく描く絵」から世の中に共通する何かを探ってみますのでお楽しみに! ということで、今回はここまで。
グラフィックファシリテーターのゆにでした(^-^)/