Mac OS X 10.5.2(Leopard)、お前もか…
Lifelogの連載も早くも5回目。すこしずつLifelogを実践するライフスタイルの核心に迫っていきます。
筆者はLifelogを実践しています。必要と思えるあらゆる情報を克明に記録し、蓄積しつづけているのです。これは、別にだれから頼まれたということでもなく、モチベーションは、自分の内部から生まれています。「 それ」が『Lifelog』と命名され、呼ばれるようになる遙か前から、そういう記録をつづけているのです。記憶にある限り、小学校の高学年のときにはすでに記録をとっていました。記録にある限りでは、さらに小さいときからの記録が(部分的にですが)残っています。1970年代からです。
実体は命名よりも先行する
命名と実体とはどちらが先行するのでしょうか。「 オーストラリアに生息しているクモのうち、すでに見つかって学名がつけられている種は全体のおよそ三分の一にすぎない」( 『 眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー/草思社)という一節がありました。もちろん、名前よりも実体のほうが、当然先行しているわけです。
「blogの次はLifelogだ」というような話を聞いたときに、ちょっと色気が出ました。でも色気はすぐになくなりました。第1回目 に触れたとおりで、Lifelogと呼ばれているログのうち、産業/流通用のことを話していることは少なくなく、そういうものと筆者の実践しているとLifelogとは、ずいぶん隔たりがあることを思うと、ひとつの言葉でもずいぶん使う人にとって意味は違うのだなぁと感じます。
ソニー、マイクロソフト、アップル
ともあれ、最近だと、Mac OS X 10.5.2(Leopard)がでたときに、シーザーみたいに「お前もか…」とつぶやいたのはたしかです。「 おまえもか」というためには、その前にもだれかがいるわけですが、その前のだれかは、たとえばマイクロソフト・リサーチセンターのゴードン・ベル博士ですかね。なんとなく時代がこっち(Lifelog)に向かっているような気はします。
Mac OS X 10.5.2(Leopard)の注目すべきLifelog機能とは、いうまでもなく、編集履歴をぜんぶ(?)保存するという、タイムマシン機能です。タイムマシン機能といえば、東京大学/ソニーCSLの暦本純一教授のタイムマシンコンピューティングという、とてもインパクトのある論文もありましたし。やっぱり風はこちらに向かって吹いているのでしょうか。
Mac OS X 10.5.2(Leopard)のタイムマシン
Mac OS X 10.5.2(Leopard)のタイムマシン機能。ついにアップルもこうなったかと思いました。2007年。
MyLifeBits
マイクロソフトのMyLifeBits。論文は2002年から。
タイムマシンコンピューティング
東京大学/ソニーCSLの暦本純一教授のタイムマシンコンピューティング。論文は1999年。一連のなかではいちばん早いですね。暦本純一教授は『PLACE+』や『MEMORY+』などの刺激的な第1回ワークショップシリーズも主催してます。
大原則・コンピュータのファイルは捨てない
Lifelogの実践とコンピュータとの相性は、けっこうよいと思います。コンピュータは小さくなってきたし、自動的にいろいろな記録を取ることができるし、手動で記録したことも、かなりためておくことができるからです。
ここでいうコンピュータとは、携帯電話や小型端末を含めていますし、記録とはたとえばGPSのログデータとか、そういうものも含めています。天気情報、乗り換え情報。世界(あるいはWeb、あるいはインターネット)は、情報に満ちています。
ファイルは捨てない
Lifelogの大原則ですが、それは、コンピュータのファイルは捨てないということにあろうか、と考えております。
コンピュータで記録できることは種々あります。それを不要だと感じたら、片っ端から捨ててしまう、というのは、筆者もひとつのスタイルとしてはとてもあこがれているものです。
きれいさっぱりぜんぶ捨ててしまう、というのと、デジタル化して表面はきれいになるというのとは、やっていることはずいぶん違うけれど、表面はおなじように見えるものです。何度か写真でご覧いただきましたが、筆者の机の上には、紙はほとんどないし、そこだけを見れば、「 捨てる」派の机と、おなじように見えると思います。コンピュータのデータは「モノ」でないためで、モノをなんでもとっておくのとはすこし違うわけです。
なくしたものについて分析する
とっておけば、いつか役に立つことはあると思いますし、その「いつか」は、検索技術やハイパーリンクなどの体系によって、けっこう高い頻度で訪れることがわかってきました。「 けっこう高い頻度」をどう数えるかは主観的評価なので、説得できるかどうかはかなりむずかしいのですが、1年ほど記録してみたじっさいのデータに基づいていえば、1年間で「出てきた!」と感じたことは500件程度あり、1日に1~2回は役に立ったと感じることがあるようです。
なくしたものに関する分析
日々、なくしたものと見つかったものに関する分析をしています。この分析によれば、デジタル化はもの捜しにはきわめて有効だろうと思います。
ひんぱんにやってくる「いつか」=セレンディピティ!?
主観的評価ではありますが、この頻度は低くはなく、これがLifelogの有効性のひとつの目安といえると思います。こういう意味のある偶然をセレンディピティと呼ぶのが流行ですが、1日に1回もセレンディピティがあるのでは、それをセレンディピティと呼ぶのでは、内容をうまく表現できているとはとうてい思えません。ここでも別の命名が必要です。セレンディピティがセレンディップの王子から来ているのなら、メモリティ(©美崎薫)とかでしょうか。もうちょっといい名前を考えます。
いっぽう、どうしても見つからないということも当然あるわけで、それも筆者の統計では、40年で10件ほどとなっています。
ま、そういうわけで、コンピュータのファイルは捨てない、というのをLifelogの大原則と考えていただければよいかと思います。
捨てないとどうなるか? ファイルが増える
「捨てない」原則を実践すると、必然的に訪れる帰結は、ファイルが増え、容量も増える、ということです。変更するたびにファイルの履歴をとっておくことを、筆者は1989年ごろから実験的かつ断続的に継続しています。結果としてファイルの総数は2008年4月末の時点で120万程度、容量はバックアップを含めて10TBを超えています。
捨てなければデジタルでもかさばる
「捨てる派? 捨てない派?」については、Namazuの作者である高林哲さんが、「 捨てなくても電子的にはかさばらない 」とおっしゃっていますが、とんでもない、やっはり電子的にだって捨てなければかさばるものです。紙がなくなったぶん、ハードディスクが増えている状況で、ほんとうにモノが減っているのか、疑問に思うこともあります。
容量10TBのファイルをマネジメントするには、システム管理者としてもそれなりの方針をもたないと、なかなかうまくいきません。バックアップやハードウェアの管理もたいへんです。
せいぜい120万だ
もっとも「厖大(ぼうだい) 」といっても、たかだか120万ファイルです。たぶん一生のうちに目にした紙すべてであっても、その1000倍とかにはなりません。意外と少ないものです。高林さんは捨てないことを、「 後から必要になるかもしれない症候群」と揶揄していらっしゃいますが、前記のように、筆者の場合1日に1~2回は役に立っているわけですから、このような「死んだデータベース」を構築しているわけではありません。
高林哲さんの『私の情報整理術:捨てる派の情報整理術』
たとえばここで高林さんの話を挿話することは、捨てない派と捨てる派を比較する点で興味深いと思いますが、この高林さんの話は、あらかじめ用意していたのではなくて、この原稿を書いているときにふと出てきたものです。つまり、検索したのでもなくて、ふと見ていたら出てきたのです。ちまたではこういう意味のある偶然をセレンディピティと呼びますが、筆者の場合それが1日に1~2回あるのです。
高林哲さんの『私の情報整理術:捨てる派の情報整理術』が出てきた日の日記
高林哲さんの『私の情報整理術:捨てる派の情報整理術』が出てきた日の日記2005年12月28日(水)の日記を見ていたら、高林さんの話「全文検索システム Namazu」が出てきました。
動画はまだ
このファイルのなかには、動画はほとんど含まれていません。動画の容量は圧倒的に大きく、それを現時点でハードディスクで保存するのはほとんど不可能だろうと考えています。
たとえば筆者は映画のDVDを1200本以上所有しています。これを容量に換算すると、4.7GB×1200本=5,640GB=5.6TBになります。10TBのハードディスク群は、10台くらいのシステムから構築されているので、もしDVDの映像を現時点ですぐにハードディスクに保存するとしたら、ハードディスクの総台数は15台以上になることになります。ハードディスクが15台というのは、あまり考えたくない状況です。10台だってたいへんなのだから…。ちなみにこの数は、2in1や4in1のハードディスクを1台として換算しているので、パーツとしてのハードディスクということになると、ざっと20台以上が動いている計算になるでしょうか…。
なんだか新しい刺激がほしくなる日々ですね。